家族の多様性。そしてカート・ヴォネガットを読み始める

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アナベル、秋色に変わりつつあった

(EOS kiss X9 2022.6)

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私は日商簿記2級を持っている。

既に社会人だった20代の、今より頭がクリアで余力があった頃に取得した。

だけど私は、実務に就くまで“後入先出法”(廃止済)に対し「後から仕入れたもんを先に売るって謎やな」と思っていた。

あくまでそう仮定して原価計算する方法の名前なんだけど。

私はこういう常識で考えたら判るやろ的な勘違いをしている事がたまにあり、時々ツッコまれる。

恐らく死ぬまでこうであろう。

こういう自分の特性?を知った上でブログを書くのは恐ろしい。でも書く。今日も平常運転です。

 

黄金頭(id:goldhead)さんの寄稿文を読んだ。

幸せなときは、口に出して言ったほうがいい。カート・ヴォネガットに学ぶこと | Books&Apps

それでも、それでもだ。カール・マルクスが「宗教はアヘンだ」といったとき、その当時の「アヘン」が意味するところは、民衆の一時的な安らぎ、なぐさみであって、絶対に否定する意図ではなかったと言い切るヴォネガット

その寄り添い方。いや、寄り添っているのではなく、人間そのものであるヴォネガット

スローターハウス5』(映画)の原作の人だった。

とりあえず読もう!ヴォネガット

そして、おれがいくら人嫌いでもヴォネガットが繰り返して述べてきた拡大疑似家族のようなものを支持するかもしれない。

“拡大擬似家族”…確かこれ最近聞いたぞ。

Kindleを手に取り斎藤環さんと與那覇潤さんの共著『心を病んだらいけないの?』を開く。

斎藤環「(略)突飛かもしれませんが、このとき私が連想するのは、前章でも名前を出したカート・ヴォネガットが小説『スラップスティック』で描いた「拡大家族」のアイディアなんです。政府がランダムに割り振ったミドルネームで、すべての人に親族がもたらされるという SFなのですが、血縁という「必然」を求めるより「絆なんて偶然でいいじゃん」と割り切ったほうが、連帯が容易になるような気がしているんですよ。」

—『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―(新潮選書)』斎藤環, 與那覇潤著

スラップスティック』。この小説のオチがものすごく気になった。黄金頭さんと斎藤環さんの書いたものから察するにつまりハッピーエンド?私は『スラップスティック』をポチった。

私がモヤっとする理由はいくつかある。例えば

  • “同一のストーリー”を持つ者への愛着を軽んじている?
  • 拡大擬似家族間の好き嫌いの方がシビアそう

 

那覇潤「(略)同一のストーリー(歴史)を共有しているからこそ、人は助け合える」といった考え方自体が、人間の可能性を狭めてはいなかったか。」

—『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―(新潮選書)』斎藤環, 與那覇潤著

ここ、私はマーカーを引いて“同一のストーリーを甘く見てる”とメモに書いている。

 

弟と私は仲が悪かった。そんな弟の結婚式での事だ。

最後、お約束である、新婦が両親への感謝の手紙を読み上げている最中、私はボロボロに泣いた。(2歳の娘を制御していたので酔ってなかったはず)彼女の手紙に感動していた訳ではない。どういう訳か、頼りない弟を連れ遊んだ子ども時代の記憶が私の脳内に次々と蘇り、涙が止まらなくなったのだ。

そして会場を出る時にグシャグシャの顔のまま「弟をよろしくお願いします」と義妹の手を握った。(そんな私をポカンと見ていた親戚や母の顔、忘れられない)

思い出を共有した者だからこそ、苦手な弟を想いやる事が出来る。無ければ…うーん…だ。

 

そしてそれらの身内は、みんな温和で教養があって裕福な人びとで、ドイツ語と英語を美しくしゃべった。

—『スラップスティック』カート ヴォネガット, 浅倉 久志

(『スラップスティック』は読み始めたばかりでまだどんな登場人物が現れ、物語がどう展開するかわからないので、今の時点で引用に使うのはどうかと思ったのだけど)

私は勉強が嫌いな子どもだった。

それでも小学校の算数は少し出来た。親戚は、私の事を“賢い子”と言った。

しかしメッキはどんどん剥がれていく。そして今に至る。

ぶっちゃけ、年齢にそぐわず幼稚で頓珍漢な事を言う私を、拡大擬似家族は好いてくれるだろうか?

 

しかし、である。

那覇潤「(略)日本人は無意識のうちに〈標準家族〉幻想の息苦しさを感じ出しているのではないですか。「自分の家族はパーフェクト・ファミリーになれなかった」という喪失感を、「お偉い皇族だって、実はダメ家族じゃねぇか」と言って晴らしているようにも見えます。」

斎藤環「(略)アメリカではセレブリティほど養子を取りまくるとか、家庭生活の多様性を許すカルチャーがありますよね。このあたりは日本人にも寛大になってほしいなと思うところはあります。」

—『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―(新潮選書)』斎藤環, 與那覇潤著

 

今度は私の結婚前の話をする。

私は当時流行りつつあった、両方の親だけをハネームーンを兼ねたリゾート地に呼んで教会で挙式する“地味婚”(今の感覚だとさして地味じゃないな)を元夫と計画していた。

そこに「待った!」をかけたのが、私の(顔の記憶もおぼろげな)親戚たちだった。

親伝いの説教の内容は詳しく覚えていないが、要するに冠婚葬祭は一族一同が集まり行うものだという事を言われた。私達は妥協してしまった。

 

それからン10年。うちの娘の親戚感が「親戚は肝心な時に助けてくれない」になってしまっている。

私は心の中で“壊れた家族は”を付け加える。

病む母と娘の、2人ぼっちファミリーは“ちゃんとしたファミリー”とは認められていないと感じる事しばしば。

私は身内にそんな家があれば、そこのうちの子どもには「大変やね。困った事があったら教えてね」くらいは言うけどなあ。何が出来るかはその後で考える。子どもに罪はない。

 

 

あとこんな事もあった。

私が若い頃、心を病んだ叔父が入院先で早逝した。(初孫の私は叔父にはとても可愛がってもらった)私はかなり後になりその事を伝えられ、驚き「何故お別れをさせてくれなかったのか」と珍しく祖母に怒った。祖母はその後何年経っても、その時を思い出して「あの時◯◯(私)は凄く怒ったね」と、嬉しそうに言っていた。祖母も辛かったのだ。

当たり前であろう、と若い私は思っていたけれど、大人になり色々な不条理を耳にする事があり、悲しい

 

私は斎藤環さんの言う“家庭生活の多様性”が許される事を願う。

 

そして

 

さらには、次の言葉を心に刻んでおいてもいいかもしれない。

“わたしが知る唯一のルールというものはだね――人には親切にしなさいってことだ”

カート・ヴォネガットを読もう。

 

スラップスティック』を読んでいて既視感がしたので、ググったら

特別奨学金アイオワ大学へ入り、創作科でカート・ヴォネガットに師事。

ジョン・アーヴィング - Wikipedia

ジョン・アービング、そうやったんか。